さしま茶

茨城県の西部の5市町村(境町、坂東市、古河市、常総市、八千代町)で生産されるお茶

を総称して"さしま茶"と呼びます。

 

全国的には認知度の低い茶産地ですが、地元の皆さんに愛され、

じわりじわりとクチコミで全国にファンを増やしています。

 

さしま茶は深蒸し茶です。

何と言ってもその特徴は各茶園が栽培・製茶・販売をそれぞれ一貫して行っている事です。

しかも企業形態をとっている大規模茶園は少ないため、

各茶園のつくりあげるお茶はそれぞれに個性的です。

 

同じエリアでお茶を生産していても、

土壌、育て方、作り方、仕上げ、ブレンド の手法が一軒一軒異なるため

出来上がるお茶には各店の個性がしっかりと反映されているのです。

 

狭いエリアに40件近くの茶園がそれぞれ直売していますので、

ちょっと足を伸ばしていただければきっとあなた好みのお茶にめぐり合えるはず。

 

長野園のお茶はどこよりもきれいな色。

さわやかな新緑の恵みを皆様にお届けしています。

 

 

さしま茶の歴史

猿島茶(さしま茶)栽培の起源は定かではありませんが、寛永4年(1627)年記載の桐ケ作村茶年貢という文献が最も古いものです。

 

当初、猿島茶は畑の周囲に植える畦畔茶として栽培されていました。

製造方法は日法と呼ばれる天日乾燥製法でした。

品質は粗悪であったために江戸の茶商たちには不人気で、

販売先は武州(現在の埼玉県)、上州(群馬県)、信州(長野県)

方面でしたが、年貢を差し引くと採算がとれない状況にあったといわれています。

 

その後関宿藩は税収を上げるため茶専用の茶園栽培を奨励し、

天保5年(1834年)に中山元成が宇治(京都)の茶師 多田文平を招き、

焙炉法(蒸した茶葉を焙炉で揉みながら乾燥させる製法)を導入。

最初の年のお茶は苦く、青臭いと酷評され安値で取引されました。

 

江戸の茶商から「茶園を培養すれば必ず銘茶になる」と励まされた元成は、

製茶方法だけではなく、肥培の管理や茶摘みの仕方にも改良を加え、良質な猿島茶の生産を目指して努力を重ねました。

 

寛永6年(1853年)関宿藩は江戸箱崎の上屋敷に関宿藩物産会所を創設し、

猿島茶の売買が行われるようになりました。

 

安政4年(1857年)黒船の来訪により日本国中が騒いでいるとき、中山元成は伊豆下田の玉泉寺で米国総領事館ハリスの秘書 ヒュースケンに猿島茶の売込みを交渉。

 

翌年、日米修好通商条約が締結され、外国との自由貿易が始まります。

 

安政6年(1859年)、中山は米国ポール商会の貿易主任 阿星と商談し、猿島茶の売込みに成功しました。

 

その後、猿島茶は海外でも好評を得、日本において重要な種出品の一つとなりました。その積出港となったのが境川岸(茨城県境町)です。

 

明治期になっても猿島茶の輸出は伸び続け明治13年(1880年)にはピークを迎えますが、翌年の物価高騰のあおりをうけ、粗製乱造を行うようになったため猿島茶の信用が失墜するという危機に見舞われます。

 

明治15年(1882年)中山元成ほか有志191名が「製茶申合条目」を設定し製茶の改良に乗り出しました。

更に明治17年(1884年)には製茶共振会が開催され、製茶の技術を競い合いました。

 

こうした人たちの努力によって、猿島茶の信用が再び回復し、銘茶としての評価を受けるようになったのです。

 

 

坂東市のホームページにもさしま茶の紹介があります。

簡潔に書かれていますので、お時間のある時にご覧下さい。

 

もっと詳しくさしま茶を知りたい方は、長野園も加盟している

境町茶生産組合のさしま茶紹介ページも併せてご覧下さい。